真の傾聴

常に何かを心配している長野さんは
84歳の女性。

「好きなんでしょ?心配が」
訊いてみた。

「そうかもしれません」

心配しているぐらいが快適なのだ。
辛さや、しんどさ、忙しさが

快適領域である人は少なくない。

浮気がバレても繰り返すオッサン。
浮気が快適領域なだけではなく、

バレて修羅場も快適領域なのだ。

こういう人に助言は不要。
徒労でしかない。
本人は気づいているのだ。

周囲は振り回されないこと。

病も快適領域である場合がある。
そういう人の話は真剣に聴かない。
本来、治す必要もない。

だって本当は治りたくないのだから。

こっちが消耗する。

寿命が縮まってしまう。

どれほど真剣に聴いているふりを
するか?

それが「真の傾聴」だ。

叱られるな…
絶対に…

治り上手

早い話が
心配しながらうまくやれることはない
ということだ。

たとえばスポーツの試合。
試合中に心配している選手は負ける。

刻一刻と変わる状況に対応できないから。

音楽の演奏も同じ。
ステージに上がるまでは世界一下手と思え
ステージに上がったら世界一上手いと思え
とはエリッククラプトンの言葉だ。

心配しながらの演奏は聴いてられない。

スポーツも演奏も、持っているスペックを

最大限発揮し、淡々とやるしかない。

病への対応も同じはずだ。
子どもは症状そのものに正直だ。

「心配」という概念がないからだ。

対して大人は「心配」と格闘する。
「いつまでも続くのだろうか?」
「死ぬような病ではないだろうか?」
痛みなどの症状が四六時中が続く、
ということはまれだ。
何かに従事していれば忘れる。
寝てるときは気を失っている。

でしょ?

子どもはとてもわかりやすい。
症状が消えたら元気に遊んでいる。

つまり症状に「連続性」がないのだ。

大人は平気なときにまで病を感じる。
「アイスピックで刺されたような痛み」
などと経験のない表現を使ってまで、
再現しやすい状況を作り出す。

安静は貯金できるものではない。
症状がないときは何かした方がいい。
しんどいときに安静にすればいい。
少々無理するくらいでいい。
どうせできない無理はできない。
必ずリミッターが働くからだ。

少なくとも、
ここからここまでが「症状」
ここからここまでは「妄想(心配)」

その仕分けをするクセはつけた方がいい。

信頼する治療法を粛々と遂行する。
心配していては治癒も下手になる。