感情をコントロールする方法


寂しいでしょ?
そう訊かれると、いつも
「まったく寂しくないですね」
と答えるようにしている。

ちなみに
腹立ったでしょ?
そう訊かれても
「全然」
と答えるようにしている。

そっちへ行かないようにしている。
そっちの「感情」と付き合っても
あんまり良いことがない。
「うつ病」はすぐに作ることができる、
と知っているからだ。


映画のように「他人の話」なら娯楽になる。
哀しみは娯楽にできても、寂しさを
娯楽にするのは難しいと思っている。


妻が突然死した澤井さん(74歳)。
「こんなに寂しいと思わなかった」
と言った。
酒量も増えている。

「そっち行ったらアカンわ。
独りで飲むの止めましょう」

主治医はそう助言した。

澤井さんの向かいの野中さん。
斜向いの吉田さん。
そのまた隣の田中さん。
みな未亡人だ。

「誘って一緒に飲んだら?」
と提案したら、少し考えた澤井さん
「ババアばっかりじゃねえか!」
と口が悪いので安心した。
自分のジジイさを棚に上げて・・・

移動するな!自宅にいなさい!

エネルギーの余っている若者には
酷だろう。
でも、しばらくの間、独りの楽しみを
見出すしかない。
時間的にも空間的にも日本はラッキーだ。

文化に感謝しつつ、新たなスキルを
身につける時間を与えられた。

その知恵がいつか役に立つ日が来る。
その日を嬉しがって稽古することだ。

ちなみに、
嬉しいでしょ?
そう訊かれると常に
「全然」
満面の笑みで答えることにしている。

水際か免疫か?


幼稚園も保育園も休園している。
子供たちのストレスもマックス。
子供の世話で妻の仕事も停滞。
週末から妻子は実家に帰省している。

うちの実家である大阪に一旦寄り、
その後、宝塚にある妻の実家へ。
帰省途上、ガラガラの新幹線の車内で
大阪府知事の「大阪兵庫間の往来自粛」
のアナウンスを知った。


帰省は、「アナーキー」な行動と取られる
かもしれないが、やむを得ない。

夫は世間で「ハイリスク」認定の診療所で
働いている。
妻子にとっては自然が多く、換気の良い
実家の方が「ローリスク」だ。
広い場所で運動もできる。

K-1や宝塚が興行を決行したようだ。
批判覚悟の英断だ。
ストレスフルな状況こそ娯楽も必要だ。

悲壮感漂わせた顔で、ヒステリックに
水際対策を他人に強要する人々。
こんなときでも、いや、こんなとき
だからこそ、娯楽を楽しむ余裕のある人。
どちらの「免疫」が機能するだろうか?


「笑い」が効くというエビデンスや報告は
かなり信頼できるデータのようだ。

みんなアホになりすぎていないか?
どうせ「アホ」になるなら、
自分が望むアホになろう。


幸いウチの診療所は患者さんが多いし、
みな明るい。
今日も笑顔あふれる外来をやるぞ!

痛みはただの錯覚?


弟は仏教系の高校に通っていた。
校則違反をすると罰として写経。
色即是空、空即是色・・・
何十枚と手伝った。
おかげで『般若心経』は暗唱できる。

ある雑談で「走馬灯」の話になった。
経験者が語るとき、そろってみな
「時間がゆっくり流れた」
という。

スカイダイビングで自由落下中の
10秒間をはっきり「観」た。
ある人は交通事故の体験を
くっきりはっきり「観」た。
「ボールが止まって見える」現象も
その類ではないだろうか。

それはいわゆる「火事場のクソ力」
のような集中力の賜物なのか?
逆行性の記憶なのではないか?
つまり「追認」なのではないか?

話は尽きることなく盛り上がった。

『錯覚する脳』の著者は
「心はイリュージョンである」
と主張する。
そして「意識の機能は受動的である」
とする仮説を立てている。


たとえば、「よーいドン」と聞いて
「走り出す」という現象を考える。

音を聞いた意識が「走り出そう」と
決めたのではない。

無意識下の小びとたちの情報処理の結果、
「走り出そう」ということが決定され、
意識は、その結果をクオリアとして体験し、
あたかも自分が行ったかのように勘違いする
システムに過ぎないと考える。

実際、意識は「捏造」を繰り返す。

たとえば、熱いものを触れて
手を引っ込める行為を考える。
それは脊髄反射だ。
引っ込めた時点で脳の感覚野に
信号は届いていない。


脳は、これを
「熱いという知覚があったから
手を引っ込めた」

というストーリーで記憶する。

これは物理学的、解剖学的な事実
であり、著者の主張を支持する。

「心はイリュージョンである」
真新しい視点というわけではない。
それどころか2500年前からの考えだ。
釈迦の「色即是空」がまさにそれだ。

とすれば、悩みもすべてイリュージョン。
娯楽として楽しむのみ!