終の棲家


「小池さんが白目むいてるんですよ」
安倍さんから未明に電話が入った。
聴診器と血圧計、パルスオキシメーターだけ
自転車のカゴに入れて、寝巻のまま向かった。

到着すると小池さんはトイレの前で
横たわっていた。
「わかる?」
「わかるわよ」

小池さんの意識は戻っていた。

小池さん(86歳女性)は頼ることが
できない息子とゴミ屋敷に住んでいる。
ほぼ独居状態で不自由なので
安倍さん(76歳男性)が面倒を看ている。
しかも安倍さんの家で!

変な風に見る近隣住人もいる。
しかし、安倍さんは神様のような
人だから放っておけないのだ。

安倍さんと二人でトイレ前から
寝床まで小池さんを運ぶ。

実は小池さんは腎癌と膵癌を
10年前に克服した(!)が、
今は心不全、腎不全で満身創痍だ。

「安倍さんがいてよかったね。
安倍さんは女兄弟に囲まれてるから
こんなことできるんやで。
ねえ、安倍さん」

とデタラメを適当に言ったら
「うち姉が5人いるんです」
と事実だったからコケた。

年齢的にも体調的にもこのまま
自然な流れを待つしかないか。
今は新コロが蔓延していて、
入院もややこしいし。

「自宅看取りの方向で・・・」
と言いながら、安倍さんの顔を見たら
(マジですか!?)
という固まった表情だった。
さすがに他人の家、それはキツイ。

翌日入院の手配をした。
スムーズに受け入れてくれた。
小池さんはあれよあれよと回復し、
来週には退院予定だ。

また安倍さん宅に戻ってくるようだ。
安倍さん宅が「終の棲家」になる
可能性は高い。

新コロで一人亡くなる背後に
999人の死者がいる。

全員、医者がいないと死ねない。
当たり前だが、新コロだけが病ではない。

死に損なう

早い話が
死にかけるのも悪くない
ということだ。

関口さんは82歳の女性。
一昨年末に死にかけた。

来院したとき、真っ黄色だった。
腹痛と発熱もあった。
血圧も下がっていた。
軽いショック状態だった。

「急性胆管炎」と診断。

コネのある消化器内科へ紹介した。
入院治療で九死に一生を得た。

おデブさんだった関口さん。
退院後「ポッチャリ」に変身した。

死ぬ思いをしたのだ。
頑張るつもりはサラサラない。
悔いなきよう楽しむ。

もちろん同じ目には遭いたくない。
1時間4千円のスポーツトレーナー、
週4回の麻雀、週末は絵も習っている。
本人いわく「遊び代」に
月10万円使っているそうだ。

素晴らしいと思う。
できる人はやればいいと思う。

減量にも成功し、生活習慣病も
勝手に改善した。
残りの人生せいぜい価値あるものに
おカネをつぎ込んでほしい。

「全部使い切って死んで下さい」
最大限のエールを送った。

死ぬほどの病で死に損ねる。
望んでできるものではないが、
瀕死も「生」のスパイスになる。

死ぬまで生きる

岡田さんは膵癌と診断された。
診断時には、手術不能だった。

岡田さんは一年前、心筋梗塞になり、

大きな病院で入退院を繰り返した。

入院中は診断できなかったのだ。
心筋梗塞で入院していたからだ。
こういう「盲点」は発生し得る。

専門が細分化され過ぎているのだ。

退院後、異常に血糖値が上昇し、

黄疸も出て初めて見つかった。

年齢もあり、緩和ケアを勧められた。

本人と家族は化学療法を希望した。

病状の進行と副作用で食べられない。

往診依頼となった。

久々に会った岡田さん。

再会を泣いて喜んでくれた。

「えらいスリムになったね」
「食べられないんですよ」
「おかげで糖尿と血圧治ったね。

膵癌と合わせて2勝1敗やね」

そこに妻が現れた。
「お粥も食べないんですよ」
「じゃあ鰻(うなぎ)にすれば?」
妻は目を丸くした。
岡田さんは、

「鰻なら食べたいかも!」

こういうことはよくある。
鰻のタレはよく出来ている。
とにかくタレでご飯が食えれば、

上出来だ。

「お茶でもどうぞ」

奥さんに缶コーヒーを手渡された。

「微糖」と書かれてある。

「ぼく糖尿じゃないんで、糖入りで
いいんだけど」
岡田さんは大笑いしていた。

今日初めての満面の笑みだった。

神棚、仏壇、ご先祖様の写真。

名言、格言さまざま貼ってある。

「みんなに守られているんで」
岡田さんは言った。
「一番ご利益(りやく)あるのが来たね」

図々しく主治医は言った。

「トイレ美術館も見ていって下さい」
トイレにも名言格言豪華絢爛だった。

見覚えのある字があった。

「うす味にしたお陰で、素材の味が

よくわかり、新たな喜びを得た」

外来で書いて手渡した口ぐせだ。

毎日トイレで呟いてくれてたんだ…

もう塩分はいくら摂ってもいい。
剥がした。
「次回もっとええの書いてくるよ」

岡田さんはニッコリしていた。

玄関で岡田さんの声が聞こえた。

「せんせ~い!」
さっきと全然違う、よく通る声!
「パソコン忘れてるよ~!」
奥さんは再度目を丸くしていた。

「こんな声いつ以来かしら…」

家族は「治す」を選んだのだ。
あとはやるだけだ。